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自転車は車道寄りを走れという正解


 先日、知人からクルマにぶつかられたと言う話を聞きました。
 いきなり横から歩道に突っ込んできたそうです。

 大きな事故にはならず大事はならなかったそうですが。
 足を捻挫し、擦りむきと打撲程度だったらしいのですが、クルマが歩道に乗り上げてきて走っている自転車にぶつかられたらしい。


 救急車を呼ぶ騒ぎになったそうですが、結局、運ばれたのは運転手の方だったとかw。



 聞けばそのドライバー、運転していたら具合がいきなり悪くなったというのです。
 心臓の辺りがキリキリとして、ぞっとして慌てて安全な方へとハンドルを切り、そうしたら知人の自転車に突っ込んでしまったという。
 申し訳ない、色々保険で何とかなると思う、なんて話。


 これと似たような話をちょっと前にもニュースで目にした覚えがあります。
 別にボヤッとして歩行者の群れに突っ込んだなんて、そんな話じゃありません。
 フレンチ料理を優先させて元官僚のゴミ老人が一家を轢き殺したなんて、そんな話でもありません。


 立っている人のところに突っ込んだというような話ではない。
 クルマが走っている車道の横の歩道に乗り上げるという事故です。

 横からクルマが突っ込んできて歩道に乗り上げ、ぶつかられて死んでしまった自転車の人がいた。
 そんな事故が他にもあったはずです。


 そういうことがあったからでしょうか、そういえば最近は自転車がやたらとアタシの歩いている方へ向かってくる気がします。
 車道寄りを走らず、わざわざ歩行者が歩いている方に寄ってきて走り抜けていく。

 間違いなくあれはそんな事故が念頭にあってしているはずです。




 自転車が車道寄りを避けて走るもんだから、端を歩いてる歩行者のアタシの方へと向かって走ってくるのです。
 しかもなかなか避けようとしない。
 直前でハンドルを切り返すから何かこっちに悪意でもあるのかと身構えてしまうほど。

 事故のニュースを聞いて自分は被害に遭いたくないと車道寄りを避けているのでしょう。


 しかしこっちは危なくてしょうがない。
 意識の高いサイクリストなんかはちゃんと車道を走ってますが、かなりのスピードで歩道をブッ飛ばしていくのがいる。
 どうせぶつかれば逃げてしまうタイプの連中でしょう。死んだ目。


 そんなのが目立つようになったからか、最近、地面に「自転車は車道寄りを走りましょう」なんて警告がペイントされました。
 標識まで立てられ、「自転車は車道寄り」なんて書いてあります。


 こんなこと書かないと分からないのか、恥ずかしい話だと思っていましたが、こんな自転車の運転が問題になっていたらしいのです。





 道路交通法上、自転車は車道を走るのが本来の決まりなのですが、車道は危ない、自分だけは助かりたい、そういうことでしょう。
 なんとなく脱法的なことがまかり通ってきました。


 ならばせめて車道寄りを走ってもらいたいと思う。

 だいたい自転車だって危ないではないか。
 車道寄りから離れて走り、ブッ飛ばしていた自転車が駐車場からひょっこり出てきた車に突っ込んだのを見たことがあります。
 あれなんざ歩道の端を走ってるからです。

 歩行者ならゆっくりですが自転車ならとっさに止めても間に合わない。駐車場から出てきて気がついたらぶつかっているわけです。
 悪いのは自転車。原則は自転車は車道を走ることになっているのですから、クルマに傷をつけて賠償させられるのは自転車の方でしょう。


 自転車は車道を走れ、と、これまで黙認してきたことの修正を行政が試みたこともありましたが、結局は頓挫してしまいました。
 今では警官の自転車すら歩道を走っています。

 専用自転車道すら整備した自治体もあったはずです。いったいどういう思いつきだったのか、その反省なんて聞いたことがありません。何事もハッキリさせない国です。


 こっちに向かって飛ばしてくる自転車をアタシは苦々しく見ています。どうにも無責任な顔と死んだ目をしている連中。
 そのうちひっくり返してやろうか、なんて思ったり(笑)。




 しかし聞けば、どうも知人の話は妙なものでした。

 そのドライバーは突然に気分が悪くなって、とっさに危なくない方へとハンドルを歩道へ切ったと言うのです。

 それでわざわざ自転車へ突っ込んだのでしょうか。
 おかしな話です。

 どうやら運転手は歩道を走ってる知人の自転車が見えなかったらしい。
 だから誰もいなくて安全だとハンドルを切ったというのです。

 知人もやはり、どうやら同じ事故のニュースを聞いてからできるだけ車道寄りでないよう車道から離れて歩道を走る習慣になっていたらしい。
 そこにまるで狙いすましたかのようにクルマが突っ込んできたわけです。


 ははあw。アタシは合点がいきましたw。

 きっと街路樹に阻まれて自転車が見えなかったのではないか。
 車道から離れればドライバーからは見えにくい。すぐ横の車道寄りを走ってれば見えるはずなのです。

 自転車なんて反射板なんかもあるし見えないわけがありません。
 わざわざ自転車めがけて突っ込む悪意もそうはないでしょう。

 要は死角になってしまい、自転車がクルマから見えなくなっていたというわけ。

 

 自分だけ助かりたいと気を回し、逆にわざわざ危険なところを走っていることになります。

 皮肉なものです。
 「馬鹿の考え休むに似たり」とはよく言うw。


 自転車は目立つようにするべきであって、隠れてこそこそ走っていれば安全というのは間違いなのです。
 クルマに突っ込まれて死にたくないというなら車道寄りを走るべきなのです。


 なにしろ自転車ですからスピードはそこそこあります。
 車道と歩道、まるで併走しているようにすればすぐ隣の自転車は止まっているように見えるぐらい目立つでしょう。
 そこにわざわざ突っ込むわけがないではないか。


 不思議とこういう事故では横の歩道に乗り上げて歩行者に突っ込んだというのは聞きません。
 横断中の児童やバス停、そんな突っ込み事故はありますが、横に向かって突っ込んで被害を受けているのはたいてい自転車です。

 ドライバーによく自転車が見えてないといけない。
 反射板は何のためだと思っているのかw。


 車道から離れて走れば街路樹が死角にもなるしドライバーには見えにくいのです。
 わざわざ、ここが空いてるからいざという時には突っ込んでくれ、そんな話になってしまう(笑)。


 私は自転車は車道寄りを走るようお勧めします。




 何にでも死角があります。こちらが目立つようにしてないといけません。
 同じことが私にもあったのを思い出しました。


 九死に一生を得たようなことが数年前にあった。

 スーパーを出て交差点で信号待ちをしていたら信号が変わった。ごくありふれた日常でした。

 歩き出そうと足を踏み出すのがアタシはちょっとだけ遅れた。
 そしたら、突然に目の前、鼻先スレスレをトラックが猛スピードで走り抜けていった。

 ほとんど信号無視状態でした。
 信号が変わるスレスレを通過しようとしたのでしょう。

 もしあの時、アタシが急いで信号を渡ろうとしていたら間違いなくお陀仏だった(笑)。

 今から改めて思い出せばまるで生きた心地がしない。
 もしかしたら、アタシは死んでるのかも、と思ったりw。


 危ねえ、なんて思ったら、ふと見るとその横断歩道のすぐ横に大きな桜の木が生えていた。
 大人が二人でようやく抱えるぐらい太い桜が歩道のすぐ横に生えていたのです。

 トラックはその桜の木の陰になって信号待ちをしていたアタシが見えなかったに違いありません。




 その数年後、同じ横断歩道を通りかかったら件の桜の木は見事に切り倒され、見通しがつくようになっていました。
 そこで桜の花びらが舞い散ることもありません。

 花なんか手向けてはいなかったから何か事故があったということもなさそうだったけど。


 まあ、あの時は家内が横にいたのです。
 家内はなかなか慎重な性格だからすぐには歩き出したりはしません。
 あたしはせっかちなところがある。


 私が信号が変わったと急いで飛び出してお陀仏。
 それで家内が傍にいてその場で看取られて。
 そしたらなかなか幸せな最後だったナ、なーんて振り返ったりするのですw。


おそまつ



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「好きなものを食べたらいいのよ」という話


 スーパーでそんな初老の夫婦の会話を耳にしたのでした。
 奥方が旦那に言っていたのです。

 「好きなものを食べたらいいのよ」と。

 どうにも共感できそうな話をしてる、私はそう思ったものでした。


 私にも覚えがあるのです。
 家内が私にそんな風に母性を感じさせるように言う時があるのです。
 私はただ「うん」という他はないw。


 先日もお話ししたかも知れませんが、私はどうにも献立にローテーションや言い訳、つまり「理屈」が必要で、献立はそれに左右されるタイプなのが私なのです。





 家内はそれを知ってか知らずか私をまじまじと見て言うことがある。

 それがまるで母親のような包容力で言うのです。
 「好きなものを食べてもいいのよ。」と。

 きっと家内は知っているのでしょう、私が必ずしも食べたいものを食べようとはしていないことを。

 私にはその家内の言い方がわかる。



 しか、こういう言い方は世間的には違うものかもしれません。
 私が触れたのも子供の頃には別なニュアンスだったものでした。


 私には幼馴染がいて、彼女には婆やがいました。

 私の下校をついでに付き添うみたいなことを言ってくれ、私はよく彼女と帰ったものです。
 婆やは時々、「内緒だよ」と言って高級な銀座の飯屋に連れて行ってくれたものでした。私は小躍りしてついていった。

 そうしてその婆やは私に「好きなものを食べていいのよ。」なんて言ったものです。

 それは何でも好きなものを選んでいい、そんな意味だと分かった。しかしどうにも私にはピンと来るものがなかったのです。



 その幼馴染の子は歯の矯正をしている子で、度の強い眼鏡をかけていた。私にはそれだけが目立っていた子です。
 しかし今から振り返れば当時矯正なんてことをやってたんだからそこそこの家柄ではあったのだと思います。

 この婆やの親への勧めでアタシもおかげで矯正をさせてもらった。


 しかし、もともと越境通学での学校が同じだというだけで特別な縁はなかった。
 二人だけが同じ路線だからと、教師が一緒の下校を奨励したぐらいでした。
 そしてその子には婆やが送り迎えに来ているのです。


 アタシはあまり相手にしてやらなかった。

 今ではちょっと悪いことをしたとアタシは振り返ります。
 きっと成長してかなりの美人になったんだとも思うw。

 彼女は子供ながらに私の厭世的なものも分かっていたような気もしないでもない。

 当時は安保なんかのデモがあちこちでやたらとあって、私は幼少の頃からそこに自ら進んで行って、子供ながら巻き込まれていったものでした。

 デモがあると学校が早めに下校になる、そんな昭和の時代です。




 ともかく、この、「好きなものを食べたらいい。」って言葉には二律背反の意味があるような気が私はするのです。
 乞食のように施しを受けて、「どうだ、ここから好きなものを自由に選べ」というのとはまた違ったものもあるのだということ。

 すなわち、「お前の好きなものは何だ?」ということ。
 それが言えないのでは食べさせてもらえないのです。


 家内は私のそんな性分を分かって言ったのだと思います。
 これだけ長く一緒にいれば分かるでしょう(笑)。

 ローテーションや理屈、最初にまずそれがあって何を食べようかという私のやり方についてということです。

 それは人間本来の感じじゃない、そう考えたのかどうかは分かりません。
 しかしそれで家内は私に同情心から言ったのだと思うのです。


 「(理屈なんかいいんだから、)好きなものを食べたらいいじゃない、」と。






 しかし私に好きなものなどあるんだろうか。そう考えたりもします。

 誰彼が「末期に何を食べたい」言ったなんて、歴史ではよく伝えられる話です。
 生きてきて最後に辞世の句を読んだりする人もいます。
 同じように最後に何かを食べたいと望む人がいる。

 人生を振り返って句にするのも、これまで生きてきたことを振り返って一番食べたいものを望む、それは同じことだとアタシは思うのです。
 生きることは食べることです。食べなければ死んでしまいます。


 しかし私は末期に何を食べたいと思うだろうか、そんなことを自問します。
 好物と言えるのはあるかも知れません。しかし「これが食べたい」というのが言えるだろうか、と。


 やっぱり考えればローテーションとか言い訳、理屈が必要になるのではないか、と。

 私には何を食べたいというのかない。
 出会った偶然に理屈かつけばそれを食べる。そんな私なのです。 




 世間的にはよくあるとされる話ですが、奥方が旦那に「今日は何を食べたい?」、そんな風に聞く。
 すると旦那は「何でもいいよ。」というわけ。

 奥方はそれなら世話がないとばかりにカレーにでもしてしまう。
 冷蔵庫に残っているあり合わせの野菜や肉なんかで簡単なのものを、と。

 すると出された旦那は嘆いてみせる、「ええっ、カレーかよお。」とw。


 こんなステレオタイプの話は考えてみれば奇妙なのです。
 「何でもいい」と言った旦那は私のように「好きなもの」が言えない、自分でも分からない人間なのではないのか。
 それなのに「カレーは嫌だ」というのです。


 私など好きなもの、何を食いたいというのがないものだから何を出されても何でもありがたくいただいてしまいますw。

 希望を聞かれるより向こうまかせ、出されるままの方が好きです。
 その場その場で出されて、味わいは違う。

 気分次第で味わいも違います。そして楽しめる。
 不満など思いもよらない。




 そしたら、こういう旦那衆ってのは「何が食べたいか。」それが実は分かっているのかも知れません。
 ただそれを言うのに遠慮があったり考えるのが面倒になっただけではないのか。

 私は何が食べたいかなんて言われれば答えに窮するぐらいですが、出されたものにガッカリするなんて、そんな旦那衆は実は食べたいものがあるのかも知れません。

 「察してよ」なーんてきっと思っているのではないかwww。
 まるで子供みたいにw。


 アタシにとっては献立にはいつも驚きがあります。

 自分で作っていても違いはありません。
 作り手と食べ手、手前と客の役を自分で分けるわけですから料理の展開には自分で作っていても意外性があったりします。
 膳を立ててみて箸を持ってみると、我ながら感心したり組み合わせの妙に唸ったりもする。

 今、家内が留守でそんなことをしていますw。


 スーパーの処分品、冷凍庫のスペース、そんな自分の縛りでいつも献立は勝手に決まると言っていい。流れです。

 「何が食べたいの?」なんて言われても、こういう理屈を上回るものはないのです。

 だからいつでも「いただきます」「ご馳走様でした」と相成るw。




 それでも家内はそういうことをわざわざ聞いてくれることがあります。
 とても感謝してることのひとつです。

 だってアタシはそう聞かれて、自分の欲しいものは何かそれを探してみればと、まともな人間扱いされている気になるから。

 そうして考える。アタシは何が食べたいんだろう、と。
 それでもなかなか考え付かないのです。
 やっぱり「昨日はアレを食べたから今日はコレにしよう。」なんて言ってしまうのですが(欝)。

 「死刑占い」www。


 あ、いや、「食べたくないもの」なら言えるのです。

 茹で過ぎてブヨブヨになった蕪の味噌汁とか、水分の多すぎるベシャベシャのご飯とか。
 脂の多すぎる肉も嫌ですし、鮮度の悪いホヤなんていただけません。

 添加物ばかりの菓子も嫌ですし、保存料ばかりの瓶詰めも嫌です。
 悪意のある国のものはもちろん食べません。


 コオロギなんて絶対に食いたくない!ww





 自分のカサブタなんかはクチに入れちゃったりします(笑)。

 ええ、今でもたまにはwww。無意識ってわけでもありません。
 それは何か「食べることへの興味」という感じです。

 きっとそれがないとアタシみたいなのは死んでしまうんでしょう。
 何を食いたいか分からないんだからw。


 子供の頃なんてハナクソだって食べたことがあります。

 さすがにウンXコは食べなかったけど。


 もし言ってあげたことがないなら、パートナーなんかに言ってあげていただきたい。


 「(栄養とか余計なこと考えないで)好きなものを食べたらいいのよ。」って。

 遠慮しないでいいとかそんな意味とは違う意味です。
 自分の好きなもの、食べたいものを食べなさいということです。
 ひいては自分で考えさせてもらえるということです。

 食糧危機だと唐突に言い出して、頼んでもいないのにゴキ、コオロギを食わせようとする、そんなんじゃない。


 「好きなものを食べたらいいのよ。」

 これがとても優しく聞こえるのはアタシだけなんでしょうか。




おそまつ




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